073.マジック・ツリーハウス 11「戦場にひびく歌声」

073.マジック・ツリーハウス 11「戦場にひびく歌声」を読む。

子どもが日本人学校の図書館から借りてハマっているシリーズ。前にも書いたが(過去記事:マジック・ツリーハウス 24「ダ・ヴィンチ空を飛ぶ」参照)このシリーズは実に良く出来ている。大人としても、その時代の歴史の復習になるし、何より、子どもと一緒に共通の本について語るのはなかなか楽しいもの。

「戦場にひびく歌声」は2つのストーリーで構成されている。
前半は、アメリカの南北戦争の話。後半は、アメリカの独立戦争の話。

歴史の復習として以下をメモ。

<南北戦争メモ>

19世紀中頃のアメリカは西へ西へと領土を広げていた。そのころ、商工業を中心にどんどん発展する北部と、農業が中心で、変化の遅い南部との間で、見解の対立がおきていた。1861年奴隷制度に反対するエイブラハム・リンカンが第16代大統領に就任すると見解の対立が激化。南部の11州は、合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ南部連合という新しい国をつくろうとして、北部と戦争になった。これが南北戦争で1865年まで続いた。南北あわせて62万人以上の兵士が亡くなったことで「アメリカ史上もっとも悲惨な戦争」と呼ばれる戦いとなった。南部の軍隊は「連合軍」と呼ばれ、兵士は灰色の軍服を着ていた。北部の軍隊は「連邦軍」と呼ばれ、青い軍服を着ていた。

南北戦争がはじまると、怪我をした兵士を収容し、手当てするための「野戦病院」がつくられた。病人や怪我人の世話は、それまで男性の仕事だった。南北戦争をきっかけに女性も看護の仕事をするようになった。南北戦争では3千人以上の女性が看護婦として働いていた。中でもクララ・バートンは自分の財産をつぎ込んで野戦病院をつくり活躍した。その後クララは「アメリカ赤十字」を設立し、戦争だけでなく、自然災害にあった人々にも救いの手をさしのべた。

アフリカ大陸からアメリカへ、多くの黒人が奴隷として連れてこられ、白人の所有物として売ったり買ったりされていた。18世紀になると、北部では奴隷制度はなくなっていた。しかし、南部ではまだ綿花農場などで、350万人の奴隷が働かされていた。この問題を巡って南部と北部が対立するようになった。南北戦争で北軍が勝ち、アメリカの奴隷制度は廃止された。

<独立戦争メモ>

17世紀から18世紀にかけて、イギリス、フランス、スペイン、オランダなどから大勢のヨーロッパ人が、アメリカ大陸へ移住した。やがてこれらの植民地は、すべてイギリスに支配されるようになっていった。18世紀の半ば、北アメリカの東部一帯は、13のイギリス植民地があった。やがて本国イギリスが、植民地に高い税金をかけるようになると、それに反発した植民地の人々はイギリスからの独立を決意した。1775年、イギリスと植民地の間で戦争が開始。

1776年7月4日、植民地の人々は、なぜ独立するのか世界中に訴える独立宣言を発表。後に第三代目大統領となるトマス・ジェファーソンが原案を書いたこの宣言は「全ての人は平等につくられている」という有名な言葉ではじまっている。現在、7月4日はアメリカの独立記念日として祝われている。

最初、イギリス軍に対し、植民地軍は苦戦していた。このころ、疲れきった兵士達を力づけ、戦うための目標を与えたのが、トマス・ペインの書いた「コモン・センス」という冊子だった。

1776年12月25日を境に、形勢は逆転し、世界最強と呼ばれていたイギリス軍は植民地群に負け続けることとなる。ペンシルベニア州のデラウェア川西岸に集まる2400人の植民地軍の指揮をとったのは、総司令官ジョージ・ワシントン将軍だった。ふぶきのクリスマスにイギリス人の陣地を攻撃し、圧倒的勝利をおさめた。(その陣地には、イギリスが雇ったドイツ兵の部隊が駐留していた。)ワシントンは6年にわたる独立戦争で、1781年、植民地軍を勝利に導いた。
1783年、植民地は、フランスのパリで条約が結ばれて13州からなる「アメリカ合衆国」の独立が正式に認められた。1788年に定められた「アメリカ合衆国憲法」は文書の形で制定された、世界ではじめての憲法となった。そして1789年、独立を果たしたジョージ・ワシントンがアメリカの合衆国の、初代大統領に選ばれた。

考えてみると、とっても皮肉なもので、アメリカは「全ての人は平等につくられている」という言葉をもとに独立宣言を行なうものの、その後、350万人もの奴隷をアフリカから連れてくるという、全く逆の行為を行なってきた訳だ。その「歪み」が結果的に自国の62万人もの民の殺し合いに繋がったと言うことだ。

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