桜井章一の「感情を整える」を読みました。
麻雀に一度でもハマったことがある人は知っている雀鬼こと桜井章一が、無敗を維持するためにいかにして感情をコントロールしてきたか、というノウハウをビジネス本っぽく整理した一冊。勝負師ならではの緊迫感と説得力を感じ取ることができる学びの多い一冊でした。メモを読んで興味が湧いた人は、手に取って読んでくださいね。
以下、自分の中で「引っかかり」のあったコトバです:
感情は川のように流せ
職場で感情を抑えすぎず、適度に素を交えて出している人であれば、友だちや家族に対しても、そう嫌な感情を出すことはないだろう。だが、人工的なものが複雑に絡み合ういまの社会にあっては、生の感情を素直に出す機会はどうしても減ってしまう。効率主義の風潮が強くなればなるほど、人間関係も表面的な付き合いばかりになっていく。その結果、生の感情は出口を失い、人工的な感情ばかりが目立ってしまうのだ。
今日、多くの人が不安や怒り、寂しさといった感情に悩んでいるのも、結局、このように人工的な感情を前面に出しすぎて、天然の素の感情を自分のなかで殺してしまっているからなのである。つまり、マイナスの感情を減らそうと思えば、人工的な感情を素の感情に戻していけばいいのである。
感情は本来、川のように流れるべきものである。
健やかな心をもっている人は感情の流れがいい。感情の流れがいいのは感情の整理が上手いということでもある。
感情というのは、ちょっとした材料を加えるだけで微妙な化学反応を起こす。感情の整理がうまい人は、嫌な感情を抱えているときにどんな素材を混ぜれば薄まるということをよく知っている。
例えば、その素材の一つは「感謝」である。
何事も自分一人の力だけでできるものではないということがわかれば、いろいろな人への感謝の気持ちが湧いてくる。そこからさらに根本的なところへ遡れば、自分の存在が自然から恵まれたものであることへの感謝も湧いてくる。
感謝はマイナスの感情を薄める最大の特効薬なのだ。
————————感情も人生も円でとらえればうまくいく
もし、あなたがマイナスの感情に強くとらわれたときは、一つひとつの感情がブツ切れではなく、円でつながっているという感覚をもつといいと思う。
苦しみの反対には楽があり、悲しみの反対には喜びがあり、不安の反対には確信がある。
そうやって感情を一つひとつ重ねていくと円が描ける。ふだんわれわれは感情を感覚的に線や点でとらえがちだが、一つの感情に強くとらわれた状態というのは、まさに線や点でそれをとらえている状態にほかならない。
感情を線でとらえれば怒りは怒り、悲しみは悲しみのままだが、円にすると怒りは優しさとつながり、悲しみは喜びとつながっていることが感じられる。そうなると気持ちに余裕が生まれてくる。
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バカな人間になったほうが勝ち
たいていの人は、できれば利口な人間になりたいと思っているので、人からはバカにされないよう利口なフリをしている。だが、私はバカになったほうが勝ちだと思う。
この世におけるさまざまな問題というのは、バカな人より、利口だと思っている人が引き起こすことのほうがじつは多い。
問題を引き起こしておいて、それを解決できないければ「お前、バカじゃないか」といわれえるから、利口に振る舞うとして事態が複雑になり、ますます解決から遠のいたりするのである。(中略)
普通なら恥ずかしいから聞けないかもしれないが、私は平気だ。そうやって私は普通のダメなところやできないものを包み隠さず出してしまうのだ。いってみればフルチンスタイルである。
利口ぶるのはいろいろなものを隠さないといけないからしんどいだろうが、フルチンでいるのはほんとうにラクである。
バカを軽蔑する人間になるか、あるいは軽蔑されるバカになるか。
私なら軽蔑されるバカを選ぶ。————————
面倒くさいことを進んで引き受けよ
人類が進歩とやらを遂げたのは、じつはこの面倒くさいと思う感情が鍵を握っているような気がする。
ところで、面倒をそうやってどんどん省いていけば、最終的に人は面倒くさいことから解放されるだろうか。残念ながらそうはいかないだろう。面倒をなくすことで、予想できない新たな別の面倒が生まれてくると私は思う。環境問題なんて、まさにその新たな面倒の最たるものだ。(中略)原発だって、電気を楽に供給してくれる便利なものと思っていたら、核燃料廃棄物が無害になる十万年後の人類にまで面倒をかけ続ける、厄介な代物であることが広く知れ渡ってしまった。
このように人間は、面倒くさいことから解放されたいと願いながら、もっと面倒なことにからめとられていくようなことを結果的にしているのだと思う。
私は反対に面倒なものに向かっていったほうが、面倒がなくなるという感覚をもって生きてきた。「面倒だな」と思いながら、面倒なものをわざわざ拾いにいくのが私の性分なのだ。
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理不尽な怒りをぶつけてくる相手には、それ以上の怒りをぶつける
怒りを出すことで自分のほうが上だぞとアピールしてくるような相手には、そんなもの「屁でもないよ」という態度を示すのが効果的なのだ。
「他には通じてもこっちには通じないよ」ということをはっきり示していいし、そんなことでいちいち怒りをぶつけてくるなんて、「あんたも小さいね」というこおをそれとなくいってあげてもいいだろう。
そのとき相手は逆ギレするかもしれないが、「あんたのその怒り方は負けだよ」ということが伝われば、相手の態度はきっと変わるはずだ。
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自尊心は重くもたないで、軽くもつ
プライドというのは厄介なものだ。厄介だが、人はみなプライドという自尊心をエンジンにしないと生きていけない
。
傲慢で、いつも威張っているような人の自尊心はわかりやすいが、非常に謙虚で控え目な感じの人でも自尊心はもっている。むしろ自尊心が分かりにくいタイプの人の自尊心のほうが、いざとなるとけっこう厄介で扱いにくいかもしれない。自尊心というものは、なるべくなら軽くもったほうがいい。
自尊心を重く持つ人は、自分の人生をいきづらくする。会社で威張りたいために出世していくような人のプライドは、ほんとうに屁のようなものである。本人はそのことに鼻高々で誇りをもっているかもしれないが、そんな誇りは、他人からすればゴミやホコリと変わらない。そんなものは、ほんとうはゴミ箱にでも捨ててしまったほうがいいのである。
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「満足」を捨て、「納得」を拾う
人の欲望には限りがない。生きている限り、ここで終わりということがないのである。
いまのように情報が氾濫している環境で生活していれば、絶え間なく欲望は刺激される。そんなところで「足りを知る」もはたしかに難しいことだろう。
それでは何かいい方法はあるだろうか。たとえば、生き方の軸足を「満足感を求める」ことに置くのではなく、「納得感を得る」ことに置くのも一つの解決策だと思う。
満足感は瞬間的にみたされてもすぐ別の不満が頭をもたげるが、納得感があれば足りていないと思われる状態でも十分足りることに気付く。
満足感を求める生き方は絶え間なく心を不安定な状態にさらすが、納得感は生きることにたしかな手応えをあたえてくれる。
link: 桜井章一の「感情を整える」
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