「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(上)を読みました。
在学前に読んでおくべきたったなー、と後悔。
すでに40を過ぎながらも、いまからどうすれば、
少しでも近づけるものか? と考えさせられる一冊。
以下、僕の中で「引っかかり」のあったコトバのメモを読んで興味がわいた人は、手に取って読んでくださいね。
米を換金しないと味噌も買えない。札差と呼ばれる両替商のところへ行くと、一石がおよそ四両に換金できた。現在の貨幣価値に換算するのは極めて困難だが、大胆にいってしまえば、一両が現在の10万円ほど。ただし幕末近くになるとインフレが進行し、5000円ほどの下落してく。
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ちょうど諭吉が生まれた頃、長年探していた「上論条例」という前64巻の本を手に入れることができた。「上論」とは法令の公布文を指し、清の乾隆帝時世下の法令を記載した書である。およそ一般の読書人が手に取るようなたぐいの本ではない。
余程うれしかったらしく、上論条例」から「論」の字を取って、「論吉」という通り名をつけた。(注釈)
余談だが、彼の姓は本来「ふくさわ」と清音で読む。
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狐と狸の化かし合いである。しめしめうまくいったと十学が心中得意になっていると思うと全身の血が逆流しそうになったが、そこはぐっと堪え
(この馬鹿野郎!)
心中そう罵りながら長崎をあとにした。
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この出会いが諭吉の人生を決定付けることになる。十字の嫌がらせがなければ緒方洪庵との出会いはなかったわけで、そうすれ後に日本の顔となる福沢諭吉もおそらく誕生していなかったであろう。
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一樹一獲は穀なり。一樹十獲は木なり。一樹百獲は人なり
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この頃、世の中は大きな変化を見せ始めていた。安政元年、ペリーが再来航して日米和親条約を締結。ロシア、オランダ、英国との間にも同様の和親条約が結ばれ、219年続いた鎖国政策に終止符が打たれた。
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早速行動に移した。当時英語のできる数少ない日本人の一人であった爆風通辞の森山栄之助を訪問し教えを乞うた。
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初代大統領のワシントンといえば日本、源頼朝か徳川家康に匹敵する人物と思うのだが、その子孫の動向については市民がさして感心を持っていない。
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諭吉は人との交際に関して、二つの大きな長所を持っていた。
一つは一度会っただけで顔と名前を覚えることができたこと。もう一つは億劫がらずに手紙のやりとりいを続け、一期一会を大切にしたことである。
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結局、「学問のすゝめ」は第十七編まで発刊され、完結したのは初編が出た四年後の明治九年。全部合わせると実に340万部以上が売れ、洛陽の紙価を高めた。
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なんとかして師の負託に応えねばならない。省に戻った九鬼は知恵を絞り、「慶應義塾で三等以上の者は、東京英語学校さんんか年以上の教科書を卒業した者と相当類似したるものと認める」
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*企画は身体性。良質な企画は世の中を変える。
*良きインプットが良きアウトプットを作る。
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