堺屋太一の「日本を創った12人」上

日本を創った

 

少し古い本ですが、堺屋太一の「日本を創った12人」前編を読みました。

作者の独自のロジックで、様々な面から日本に多大なる影響を与えた12人の人物を
前編と後編の2冊に分けて紹介した一冊です。

前編には
聖徳太子、光源氏、源頼朝、織田信長、石田三成、徳川家康

後編には
石田梅岩、大久保利通、渋沢栄一、マッカーサー、池田勇人、松下幸之助

 

メモを読んで興味がわいた人は、手に取って読んでくださいね。

以下、僕の中で「引っかかり」のあったコトバです。

 

聖徳太子 

世界唯一の「習合思想」を発案

太子の歴史的な業績としてよく知られているのは、第一に仏教の研究と普及である。第二には「十七条憲法」や「冠位十二階の制」など国家制度を定め、日本を豪族支配の国から官僚制度の整った組織行政の国にするきっかけをお作りになったことだ。

(中略)

太子が現在の日本に残している影響として、私が最も強調したいことは、仏教を布教し、自らも熱心な信者であり研究者でありながら、同時に「敬神の詔」を出されたところである。

聖徳太子は仏教を信仰し普及させたが、神道を弾圧した気配はまったくない。むしろ神道には理解を示し、援助を与えた。ここに日本人の宗教観を決定する要素があった。

(中略)

これは決して容易なことではなかった。先進文化を伴った宗教が流入した時、在来の宗教や社会制度とどう調和させるかは、どこの国でも生じる問題である。例えば、ギリシャやローマもキリスト教が入ってきた時に、オリンポスの神々の信仰、ジュピターの信仰をどうするかという問題に直面した。あるいはドイツ地方のゲルマン人も、地中海地方からキリスト教が入ってきた時、ゲルマン古来の信仰をどうするかという問題に出会った。インドにイスラム教が入ってきたときも同様だった。

ところが、いずこにおいても習合思想は、ついぞ出なかった。そのため二者択一を迫る宗教戦争が繰り返された。いわば宗教的な純粋性を追求したため、宗教対立から戦争と憎悪が生まれるのである。

世界でほどんど唯一の例外が日本である。日本でも、蘇我・物部の宗教対立は戦争になったが、そのあとには、宗教対立による戦争はない。

聖徳太子は世界でただ一人、習合の思想を発案した偉大な思想家である。そしてそれが今日に至るも日本人の骨身にまで浸み込んでいる。

 
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光源氏

実際、今日の日本においても、光源氏ほど平安貴族または貴族政治の原型をよく伝えている「人物」はいないだろう。

(中略)

「何もしなかった政治家」光源氏の影響は、現代日本のどんなところにどんな形で表れているのだろうか。

まず第一は、日本的な貴族政治家まはた「上品な人」の原型を創り出したことだ。

実際、この国はしばしば、「光源氏」型の政治家が現れる。つまり、一見上品で人柄はよさそうだが、現実の政治はほとんどやらず、やる気さえなく、行財政の細部と実務には知識も関心もない、というタイプの政治家である。

現在でも、上に立つ者、トップは細かいことをゆべきではない、よきにはからえで下のものに任せておいた方がいい、あまり細かいことをいうのは大物ではない − そう考える週間が日本にはあるが、これはまさに光源氏を典型とする平安貴族にはじまった現象であろう。

(中略)

外国の指導者は、ヒトラーも、チャーチルも、スターリンも実に細かいところまで自らの責任と権限によって決めている。アメリカ大統領のルーズベルトも戦争をはじめる時、どれくらいの軍艦を造るか、どんな戦車を造るか、などなど専門家から詳しく聞いて、最終的にはすべて自ら決めた。チャーチルも毛沢東も同様である。

「ノーブル」と「上品」の大きな違い

このことはまた、日本人の持つ「上品」の概念が外国のそれと違うことをも意味している。これが光源氏、つまり平安貴族が残した第二の影響といえるだろう。

日本でいう「上品な人」とは、まさに光源氏。あまり指導力は出さない、喧嘩や体力も弱い、荒野で生きる耐久力やサバイバル能力はむしろ低い。専ら美意識と詩歌の世界に埋没し、他人を不快にしない社交術を心得ている、塩っ気も油っ気も足りない人のことだ。

ヨーロッパの貴族社会では、「上品」つまり「ノーブル」の前提となる条件は「克己心と用心深さ」といわれている。中でも重要なのは克己心だ。

例えば、軍隊がジャングルに取り残された。食糧供給も途絶え猛獣も出る。そういう時に誰が生き残ると思うか。日本人なら農民や労働者出身の兵士が生き残ると思うだろう。

ところが、イギリスでは、「いや、彼は生き残るよ。何しろ貴族なのだから、ジャングルくらいで暮らすくらい平気だろう」と必ず答える。

(中略)

今日のわれわれでも平安貴族であった光源氏の生き方は、憧れの一つに違いない。しかし、今後ますます国際化が進み、強力なリーダー湿布が求められる時代には、「光源氏」型では対応できなくなるのではないだろうか。

つまり、この日本型の「上品」も考え直すべき時がきたのである。

 
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源頼朝

源頼朝といえば征夷大将軍となって鎌倉幕府を創設、日本の支配権を握った、というのはよく知られている。

頼朝が征夷大将軍になり鎌倉に幕府を開いたというと、われわれは今日に最も近い江戸時代の徳川幕府を思い起こす。

しかし、同じ幕府といっても頼朝が鎌倉に開いたそれは、組織も機能も徳川幕府とは異なったものだった。権力の源泉も統治の構造も世間の見る目も、大いに違っていた。頼朝はそれまでの歴史に前例がなく、今日の感覚から見ても収まりの悪い、「けったいな政権」を創ったのだ。そこにこそその男の恐るべき独創性がひそんでいる。

(中略)

征夷大将軍とは、東部総司令官であり、もともとは臨時に任命される武官職名に過ぎない。

征夷大将軍は、律令制制では、臨時の職名でさして高い地位でもない。ところが頼朝は、先に後白河法皇の私文書で得た諸国守護地頭任免権を利用して、自らが司令官となった臨時東部軍に全国の武士を編入した。従って、全国の武士は、東部軍所属だから、その総司令官たる征夷大将軍・源頼朝の命令に服さねばならない。

源頼朝が全国を治めた法的根拠とは、まことに奇妙なものだったわけである。

(中略)

建前の律令制、本音の幕府

さらに頼朝の恐るべき巧妙さは、「二官八省」の律令制には手をつけず、京都には太政大臣、左右大臣以下、一切の官職をそのまま残したことだ。権威と権力の二重構造 − ここが頼朝の天才的な独創性であり、同時に大問題でもある。

東部軍総司令官は、東部軍の軍事機能を掌握しただけではなく、次々と官職を創り出して与えた。このため、律令制の外側に、令に規定されない官職、いわゆる「令外官」が次々と誕生する。日本人は建前と本音、形式と実態を使い分けるといわれるが、頼朝が公的な統治組織を律令制という建前(形式)と幕府という本音(実態)の二重構造にしたことも、深い関わりがあるに違いない。

(中略)

源頼朝は、「令外官」によって日本の政治を牛耳る制度を創ったことで、形式的上部機構をお飾りにして残し、実験を実質的下部機構に下ろす前例ができ上がった。この結果、上の律令制に巣くっていた京の都の平安貴族は、いつまでも名門として権威だけを保つことができた。おかげで、流血の惨事は少なくて済み、武士が軍事政治を担当し、貴族は文化を担当する、という分業もできた。

(中略)

これがのちのち日本の歴史に影響し、今日に至るまで、大臣よりも事務次官が権力を握っていることが、不思議に思われない伝統ができ上がってしまった。政府官庁機構だけではない。企業でも、社長にいたっては話が通じない。本当は某専務だよ、いや某専務よりもその横にいる社長室長の誰それだ、といった事態が不思議に思わなくなってしまった。

 
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織田信長

信長はこの日本一弱い軍隊が、実は天下を征服すると信じていた。一回一回の戦闘では弱いが、いつまでもいつまでも戦争ができるからだ。

確かに農民兵は強い。だが、農繁期になると必ず故郷へ帰って稲刈りや田植えをしなければならない。農繁期には敵方も同じことをしているので自然休戦になる。ところが信長の銭で雇った兵は田植えも稲刈りもない。敵方の砦が何十人かの留守居だけになったときに砦を千人二千人で取り囲む。これなら、いくら弱兵でも必ず勝てる。

銭で兵を雇うとなれば、当然のことながら多額の銭が要る。その銭をどうやって調達したのか。もちろん、領地が増えるとそこから銭が入ってくる。信長自身の領地が増えれば年貢米を売って銭にすることができる。だが、それだけでは到底足りない。そこで信長の考案したのが「楽市楽座」である。

関所と座の全廃は、今日でいうと規制緩和だ。当然、既成業者には嫌われるが、自由経済は進歩を促し、やがて大きな経済力を生む。特に、「銭で雇う兵」を持つ信長には、自由化で流通コストを下げ、尾張の物を高く売って、装備や鉄砲を安く買うのが大事だった。

信長の凄いところは、組織、財政、人事、そして戦略戦術上の新機軸を一連として創り出したことである。これによって世の中はいっぺんに変わった。その意味では信長の政策が中世から近世に流れる大きな転換期となっているわけで、組織的にも財政的にも経済的にも軍事的にも、すべての面で体系として近代化をはじめたのである。

信長こそは、現代の中央集権型の日本を創った元祖といえるだろう。

 
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石田三成

日本という国は、中堅官僚や中堅社員といった人々のネットワークで動かされている。つまり「偉くない」人たちが企画した事業が実現するのが「日本型プロジェクト・メーキング」である。その手法を開発したという意味で、石田三成もまた、今日の「日本を創った」一人といえるだろう。

 
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徳川家康

家康が日本の社会と今日の日本人に、どのような影響を残したか。
第一に、政治家として武将として、天下統一と幕府創建という大変に重要な役割を果たした。第二に、個人として、その人間制が日本人の生き方の手本となった。第三には、家康の創建した徳川幕府が試したことによって日本社会が規定された。この三つの面で、神として祀り上げられた家康の虚構部分を含め、今日の日本に多大な影響を与えている。

 

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*企画は身体性。良質な企画は世の中を変える。
*良きインプットが良きアウトプットを作る。

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Link: 堺屋太一の「日本を創った12人」前編
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