Book LOG | 北康利の「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(下)

 

北康利の「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(下)

 

北康利の「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(上)に続き、 「福沢諭吉 国を支えて国を頼らず」(下)を読みました。

まさに、「一樹一獲は穀なり。一樹十獲は木なり。一樹百獲は人なり」

 

以下、僕の中で「引っかかり」のあったコトバのメモを読んで興味がわいた人は、手に取って読んでくださいね。

 

 

明治11年(1878年)12月、第一回東京府会議員選挙が行われた。当時は選挙権も被選挙権も、年齢と納税額で決められている。この時、諭吉は府下最高得票で選出された。

 
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最初に打診したのが徳川宗家(将軍家)であった。窓口はあの勝海舟である。自尊心の強い諭吉にとって、相当屈辱的なことだったに違いない。しかしそこはぐっと堪えて窮状を訴えた。

 
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明治13年(1880年)、ついに諭吉は廃塾を決意する。
(これからはどこかに隠棲して、悠々自適の生活を送ることにしよう)

 
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身分制を蛇蝎の如くに嫌う彼は、子供たちの間にも上下関係を持ち込ませなかった。上の者が命令口調で目下に接することはなく、しごく平等な関係にした。兄や姉が弟妹の名を呼ぶ時もけっして呼び捨てにはせず、「捨さん」「おさとさん」といった風。

 
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明治14年の政変

心許していたただけに、裏切られたと知った時の怒りは凄まじかった。自分の門下から権力の亡者が出てしまったという情けなさもあって、「心外」だとか「残念」だとかいう生易しい言葉では表現できない感情が胸の中で煮えたぎった。

 
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余談になるが、そもそも諭吉は筆まめで、生涯に1万通を越す手紙を書いたと言われている。

 
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井上(角五郎)の努力から40年ほどが経った1920年頃から、朝鮮では自国の言葉のことを、誇りを持って「ハングル」(偉大な文字という意味)と呼ぶようになった。

 
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諭吉は宗教にはあまり関心をしめさなかった。
(宗教の中にはいろいろな宗派があるが、その違いは普通の茶と紅茶の違いぐらいであって、どちらを飲んでも大した違いはない)という、宗教家が聞いたら怒りだすようなことを、例によってわざと述べている。

 
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臨終はいつの場合も、人間の尊厳が集約される瞬間である。
明治34年(1901年)2月3日午後10時50分、生命の砂時計の最後の一粒が流れ落ちると、忙しく働き続けた諭吉の器官はついにその動きを止め、やすらかな永遠の休息へと入った。享受六六。

 

 

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*企画は身体性。良質な企画は世の中を変える。
*良きインプットが良きアウトプットを作る。

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