田口ランディの「アルカナシカ」

田口ランディの「アルカナシカ 人はなぜ見えないものを見るのか」を読む。

田口ランディの「コンセント」「アンテナ」「モザイク」のディープな世界を求めて手にした本。しかしながら、本作は、期待していたものと全く異なっていた。

「コンセント」「アンテナ」「モザイク」を読んで、てっきり田口ランディはスピリチャルな感覚が鋭く、「繋がる」術を知っている類いの作家なのだと思い込んでいた。しかし、実はその逆で、著者はこれらの世界に全く入り込むことができないが為にこれらを外から追求し続けながら、自分の武器である「言語化」を研ぎすましてきた人だった訳だ。ちょっと角度は違うけど、まるで、松尾スズキの「スズキが覗いた芸能界」の中の、芸能界を外から見ている松尾スズキみたいだ(笑)

本書は、言うならば「自己の解明書」。それだけに容赦なく意識レベルが高い文体の羅列で構成される。内容としは、潜在的に分かっていることではあるものの、改めてこれらの事象を文書として伝えられることで再認識する、または、将来ふとした瞬間により腹落ちするのであろう。

と言うことで、気になった文書を記しておく。

・現実と完全に拮抗する、あるいは凌駕するほどの非現実は、もはや非現実ではなく、もしそれが非現実なのだとすれば、ただいまこの世界も非現実なのだ、というとてつもない解放と、空虚と、同時に確かなものはないからこそ、パースペクティブが必要である、という倫理や道徳の必要性さえも、与えてくれるような気がしているのです。

・体験者たちを見ていると、人間は体験を消化吸収し、言葉にして排出しているのだと思えます。体験された瞬間からそれは人間的認識に取り込まれ、人に語られるのは言葉による「説明」であって、そこには体験そのものの衝撃はもはや消えているのです。だから言語化できているのですが、その、衝撃が消えた言語の羅列が逆に恐ろしくて、他者である私はそこに別のリアリティを感じているような気がします。

・スウェーデンボルグは人間の心のモデル化をした。人間の心は大きく三層に分かれている。本能と呼ばれる自然的な心。その上に位置する理性的な心。。そして、さらに上位に位置する霊的な心。彼はこの霊的な心を「純粋知性」と名づけた。この霊的な心のさらに内奥にあるのが、霊魂である。この純粋知性を「人間が経験によって獲得するものではなく、はじめから完全なので、経験によって完全にされる必要もない」と行程したのである。

・感情のエネルギーを過剰に肉体に帯電すると、肉体に負荷がかかる。適度な親愛の感情は肉体にとって、とても効果的。内蔵が歓喜で震えると、細胞は癒され活性化する。でもそれすら多すぎるとやはり負担なのだ。

・人間は世界に開かれた感受体であり、感情は世界を読み解くためのコードであり、肉体はコード解読のためのOSを持ったPC
であり、感受体である人間は、感情という肉体と親和性のあるコードを使って世界と共鳴する。

・情報とはそれを解釈する人間によって量が増えたり減ったりしてしまうのだ。

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